こんにちは
今回は第3回ということで書いていきます。
第1回、2回とみられていない方はぜひそちらから先に御覧ください。下にリンク貼り付けています。
生真面目がゆえに適応障害となった男性看護師①
生真面目がゆえに適応障害となった男性看護師②
ブログをご覧になっている方々で
・適応障害と診断された方
・憂うつ状態の方
・自殺念慮まで考えている人
がいらっしゃいましたら今抱いている気持ちをこの中で共有できたらと思いますので、どんな些細なことでもコメントで教えていただけると嬉しいです。コメントの言葉が他人のアドバイスや共感につながります。
宜しくお願いします。
今回は
- 相談相手はいなかったのか
- ストレスが溜まりに溜まっていよいよ。
について書いていこうと思いますので、最後までお付き合いください。
最後の方は、なかなか残酷です。ご注意してご覧ください。
では行きます。
相談相手はいなかったのか
第1回でも話しましたが、私は、「自分を犠牲にしても、誰かが幸せであれば・・・。誰かのために生きたい・・・。落ち込んでいる様子は誰にも見せたくない!」といった考えを持つ人間でありました。
そもそもから他人に自分の悩みを話すことは苦手で、嘘でも元気を装うことをしてしまうんです。例えそれが、信頼できる嫁や家族に対してもです。
「自分の気持ちを理解できる人なんていない。これを言ったらなんて思われるか分からない。悩みを伝えて他の人にバレたらどうしよう」そんなことを考えてしまうんです。
色々と育児や仕事で悩んだことがあっても、当時の自分自身もしんどいことも、口に出すこともなく、徐々に膨れ上がる精神的ストレスに気づいていなかったくらい元気で過ごしている様子でありました。
「これくらいはみんな我慢してる。俺も頑張らくちゃ」と自分で自分を追い詰めていたのです。
そして、ストレスが溜まってきているときに、部署異動があったのです。
ストレスが溜まりに溜まっていよいよ。
2020年4月。消化器外科病棟より中央手術部への異動が言い渡されました。元々より自分自身アルコール過敏であったため、中央手術部への異動は無いだろうと思っていた矢先での発表でした。発表されたときは非常にショックが大きかったことを思い出します。
「でも初めての異動だし、がんばろう」そんな気持ちがよぎっていましたが、これがまた大変で・・・。
いざ部署を異動すると手術部自体が閉鎖空間であり、人も変わった人が多かったのです。そうです。まず降りかかってきたのが、人間関係です。なかなか自分を出し切れない空間で苦痛の日々を過ごすことになったのです。
次に降りかかってきたのが、自己の大切にしてきた看護観がなかなか出せなかったことです。
第2回でも記載しましたが、「患者の身体的、精神的苦痛を何とか軽減させたい」が自分を看護人生を支える柱であったのですが、患者とコミュニケーションを取るのも手術開始前の数分のみ。覚醒してもすぐに退室してしまう。
「自分って何のために看護師してるんだろう」や、医師の下で働いている感が非常に強く感じてしまって辛くなることが多くありました。
「やりたい看護はここで見いだせない。このままいけば自分自身が苦しいだけ。異動希望したけど異動できなかった。人間関係が非常に苦しい」
ここで自分自身のストレス反応が出たのでしょうか、 そこから逃げるような形で自分自身は大学病院の退職という形を選んだのです。
「次行く病院では、病棟で働きたい。でも病院のレベル自体は下げたくないし、ある程度収入面でも家族を支えたい」そんな気持ちが頭のどこかにあり、2021年4月、大阪に拠点を移し、市民医療センターへ転職を決意しました。
「一度逃げるような形で辞めたから、次こそはしっかりするぞ」そんなことを思いながら働き始めました。しかし。
そんなことを思っていた矢先、待ち受けていたのは、当時の大阪府で大流行した第4波コロナ感染爆発でした。
「経験者だから、もう一人立ちで大丈夫よね?」入職して2週間も経たない間で独り立ちとなり、院内ルールもきちんと教えてもらっていない中、自分自身だけの今までの知識で何とかしようと、藻掻き続けていました。
「大丈夫、今まで働いていた大学病院と同じ忙しさだから」と自分に言い聞かせて。
しかしどんどんとコロナ感染が広がり、働いていた病院も集中、救命共にパンク状態となりました。
私が働いていた病棟も、集中、救命共にパンクしていたため、重症患者がどんどん増えていき、不穏患者も増強。自分の唯一であった病棟での相談相手であった男性看護師も集中治療室への応援へ行ってしまい、自分自身、身も心も疲弊してきました。
でも「家族を養っていかないと。嫁のため子供のため!!一回辞めるって言って文句を聞いてもらってるんだから、ここで何とかしないと」そんな気持ちが、起きてからも寝る前も1日中考えていました。
家族から「今の病院どう?働きやすい?」なんて言われても、当然性格上、「大丈夫よ、前の病院よりだいぶ楽。夜勤だって寝る時間たくさんあるし、夜勤明けも元気やで」と元気を装っていたのです。
帰ってきてから育児や家事、寝たらまた病棟では多忙で精神的にも疲弊して帰ってくる。慣れない大阪での生活、満員電車に揺られて行く電車通勤、仕事も残業が日に日に増加し拘束時間が増えてくる。
また働いていた病棟にも人間として考えが合わない人がいました。
その人が何か気に入らないことがあれば、自分に当たってくるようにターゲットにされて、変なことでも怒られ。
もう精神的に限界になってきていました。「相談しても理解してくれる人なんていない。絶対耐えてやる」と思ってるのも疲れてくるくらい。「俺って、ダメなのかな」なんて思うようになってきました。
そして第4波が落ち着きを見せ始めた7月初め頃、人間的に合わない人と師長を含めた3者面談をしたいと、師長から言ってきたのです。
「自分自身、この3か月間、身体的にも精神的にもしんどかったことを全部話そう。精神はギリギリだ。助けてもらおう。そしたら何かが変わるはず・・・!」そんなことを思って面談に臨みました。
しかし・・・・。
面談内容は以下の通りです。
「あなたの看護って何がしたいの?何も見えないんだけど、迷惑ばっかりかけてる」
「あなたのやっている看護って本当に大事なことなの?患者を危険にさらしてるだけじゃない?」
「経験者だったら、もっと病棟に還元してもらわないと困るのよ。みんなの陰に隠れているように見える」
「やる気あるんかな?」等々・・・
「・・・・。」
もう何を言ってもダメでした。
その時、何か心の中で弾けた感覚になりました。
「あー。自分なりに頑張ってきたけど、病院にとって自分なんて邪魔なんだ」
「夫としても、人間としてもダメなんだ」
「一回勇気出して逃げたのに、また自分はダメなんだ」
「社会不適合者なんだ」
「もう消えてなくなりたい」
「どうやったら死ねるかな」
そんなことを考えてしまって、自分の中で気持ちの処理ができなくなってしまいました。
面談後、どうやって帰ってきたか分からないくらい頭の中はパニック状態、抑うつ状態のまま自宅に戻り、車を拾ってドライブに出かけました。
どこの道を通ったかも全然覚えていませんが、和歌山の海に着いていました。(スピードメーターは見てないけど早いときは120キロくらい出てたかも)「もう事故してもいいや」なんてことも思ってました。
「帰ってきてほしい」と嫁、家族からのLINEも度々あり、夜中に自宅帰りベッドに倒れました。そこから記憶は曖昧です・・・。
そして面談して2日程が立ち、無性に死にたい気持ちがぶり返してきたのです。
家族に相談もなく、車に無断で乗って出かけました。
そうです。自殺を図りに出かけたのです。
「これで俺も楽になる。嫁も子供も他の人とつながって幸せになれる。病棟もこれで患者が安心して療養できる」もう正常な気持ちで考えることはできませんでした。
「ありがとう、これからはお幸せに」と嫁にLINEをして。
そして、勇気を振り絞って行いました。
睡眠導入剤、鎮痛薬の多量内服。
「・・・・これで楽になれる」
「・・・・・・。」
「・・・・。」
「橋本さん聞こえますかーーー」
「・・・!?」
気づけば、和歌山の救急外来の病院で目が覚めて、医師や看護師に身体を抑えられてました。
そうです。自殺はできず。生きていました。
何がなんやら訳が分からないような感覚でした。そして落ち着いて気が付きました。
「あ。俺死ねなかったんだ。また辛い日々迎えるのか・・・」と。
今日はここまでです。またブログ更新します。
最後まで見ていただきありがとうございました。
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